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2016/08/24

<凡庸>という悪魔 


 思考停止の大衆は、大衆迎合的な言説にすがるようになることとその弊害につ
いて解説している一冊。

 近年のマスコミ批判とともに視聴者側の不見識さを問題を指摘する識見者も少
なくない。著者は、そうした学者の一人である。
 著者の専門は都市社会工学で、土木政策を推しており、現在は、内閣参与(近
畿地方の有力代議士が推薦したという話もある)でもある。

 著者によると、アダム・スミスの古典派経済学の前提には道徳情操論があるが、
フリードマンによる新古典派経済学あるいは新自由主義なる全体主義には、道徳
や倫理がなく、その点が古典派との違いなのだそうだ。

 著者の表現の仕方には賛否あるでしょうけども。
 そもそも、経済モデルは消費者や生産者の心理が単純に表現されているだけで、
基本的には大まかな方向性を示す手法として使われるべきでしょう。
 多くの人が目にする大学教養課程のテキストでは、1次線形で表されているく
らいで、パラメーターは少ないし、情報と計算の完全はないに等しい。

 経済政策を打ち出す際に、ある種の思想として学説が用いられていることがあ
る。経済施策ありきで、その論拠として経済理論(ケインズ、新古典派)が使わ
れているのであろう。
 では、経済施策は何かと言えば、つまるところ、為政者の”想い”だろう。
 想いとなると、必ずしも経済合理性を追求するわけではないから、学者や経済
評論家の目には為政者がわからず屋に映るのかもしれない。

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